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Kiki's letter on web vol.10

キキ通信 vol.10

2011.11.4.fri.

「自分の居場所」

子供の頃の記憶や多感な時期に遭遇した経験というものは時が経つにつれてやがて消え、絶えていってしまうだろう。しかし不思議なもので記憶は例え、消えても人の命の有る限り魂に宿るのかある日五感を通して蘇るものもある。そして、いつの日か感性の欲望は長く体の中で蓄積され自己のイメージは進化していく。出逢いを悦び、別れを哀しむ繰り返しが、やがて物を表現するこだわりとなるなら音楽も絵画も文学も表現者独自の世界で造られる歓びを忘れてはならない。

ここに私と言う一人の人間が命を授かり長い年を生かされてきたが、どれだけの世界を観る事が出来るのだろうか。生きる時間というものはそんなに長くは無いものである。どれだけ感動をする時があるのだろうか?どれだけ自己を知り人と共有する営みを悦び合えるのだろうか?

限りある時間の尊さを重んじるなら精一杯やってみるがいい。

そう思った時まずは自分のいる場所を見つけた。それからその場所に集う人と出会える様に空間を創った。そこには絵を飾り花を添え好きな物を並べた。好きな音楽が流れ喉を潤すお気に入りのお茶を入れる。焼き菓子に舌づつみをし夕暮れになれば灯りをともし葡萄酒やチョコレィトを味わう。質のいい熟せいしたチーズも忘れてはならない。誰かが詞を読むと彼はボードレールを語り挙句の果てはオスカーワールドの物語に熱くなる。そこに左ききのセロ弾きが訪れる。人形の様なヴイオラを弾く少女の衣装のチュールレースが揺れていた。リュートを持ち出した陽気な青年が古典の音色を奏でるともうそこには名画の様に美しく頬を染めた人々は時代を忘れる。そこで語り言葉を交すひととき。それが「サロン・ド・キキ」の始まりだった。私はそんなサロンの舞台裏や幕間にいた。企画と演出にいつも胸をときめかせ、紅色に頬を染めた人の横顔を観ている幸せに満足だった。

15年の歳月を今終えた時かつてそこに集った人達も又何処かで演じていると言う噂ばなしを耳にする。私はもう幕間から観る事も無いだろうにそれが今何故かあの頃集った顔ぶれとバッタリ共演する話が舞い込んで今度は一緒に演じるとはまったく不思議なものである。長い年月を自分が演じて来た事は何だったのだろう?

最初に演じた場所は「宵待草」と言う空間だった。そこは最適な舞台であった。

30年の場所で15年の「サロン・ド・キキ」と全て幕をおろして終わった今、私は屋根裏での暮らしを選びアトリエとして自分独りの居場所にした。そこにはもう誰も訪れる人も無かったが森の中の屋根裏暮らしは最後の居場所と思っていた。しかし夢物語は現実と言う世界に引き戻される事もあるのだ。世の中はそんなに甘く無い事も知らされた。人か来て好きな物を並べて語る小さな場所を又造ってみたくなって。私の不自由な足がそろそろ悲鳴をあげていたから私の椅子の横にいくつかの小さな椅子と本を並べてみたかった。窓から森を眺めながら語る人等居ないのに又しても小さな舞台を創りたくなったのだろうか?天の神さまはそれを許してはくれなかった。

2011.11.11にほんの小さな屋根裏空間は取り壊される事になった。見知らぬある人が役人に通報したのが理由で何故か壊されてしまう事になってしまった。少しばかりの居場所造りはこわれてしまった。生涯ここに居られるなら、これから絵を描いて暮らそうと思った場所は私には叶える事が出来なかった。屋根裏が取り壊されている日丁度私は上野の森美術館に居る。美術館に一日居るのは気が紛れて助かる。これは神様の心使いだろうか?どちらにせよもう森には帰れない。とフランソワーズアルディの詞を想い出してしまった。

これからの最後の住処はどうなるのか未定になった。ココシャネルを真似て生涯ホテル暮らしが出来たとしても貧しくも幸せでありたいなら、きっと又私らしい居場所を見付けるだろう。もう人が集うサロンは出来ないなら独りで「キキ通信」を演じるのも良さそうだ。

そんな時長い間私の空間をこよなく愛してくれたひとりの女の子から長いメールが届いた。キキ通信を読んでくれたと言う。居場所を造りサロンの集いは出来なくても違う形で独り演じる事は今の私らしいのだろう。

Kiki's letter on web vol.11

キキ通信 vol.11

2011.11.6.sun.

「時間の針を戻して」

今年も又1年の終りが近づいて、振り返り思う季節が来た。1年が12ヶ月であれば、それを1/4に分けると四季になる。それを1ヶ月に分けたら30日。毎年11月になると、次の年のカレンダーが売り出されて、ノエルの準備が始まる。カレンダーにはノエルの月が2枚あるのが嬉しい。一つひとつの窓が並ぶカレンダーを見ていると、この窓にはどんな印が付くのだろう?と想像しながら、大切な日をさがす時来年はこんな事したいなぁと考えると少しばかりのわくわく時間だ。毎年、カレンダーはヴィクトリアンのデコパージュが盛り沢山のと決めていた。そのカレンダーは壁に架けるとインテリアとしても気に入っていて、とても毎日のスケジュールなんて書けず実用性には欠けているがそれでも飽きずに毎年マチルドインザギャレットの酒井晶子さんにお願いして送って頂いたり、ノエルが来る前にショップに行って買うのも楽しみの一つで、古いカレンダーも捨てずに箱の中に入れてある。何年も貯まったカレンダーには何の記録も残って居なかった。スケジュール記録のメモに出来なかった、古いカレンダーの窓は何を見て来たのだろう。ただヴィクトリアンの美しい、盛り沢山の色採りは変わりなく飾られている。

2011年のヴィクトリアンカレンダーは、2010年のノエルの頃に何故か買っていなかった。でも私のスケジュールメモと記録は数えきれなかったので、いつの間にか買わなくなった。現実は余りにも慌ただしくもあるのか、盛り沢山のスケジュールは、相変わらずなのにカレンダーには書ききれない事が溢れた。感動的な歓びもあれば、ある日突然予期しない出来事も起きた。日本に、大きな天災が襲いそれによって起きた人災と言う取り返しのつかない事態が現実におきた事である。ある日突然おきた災害の悲しみから人々は復興に向けて立ち直ろうとしている所にさらに悲劇はおきてしまった。それは欲望と経済の豊かさを願う人類が自然と言う豊かさを忘れてしまった事から始まった。そして今この世に、生を授かった小さな命を蝕む世にも恐ろしい物を人類は次々と造り出している事である。地球の星に営まれる、自然の恵みに何故人は歓び感謝していないのか?この国のリーダーは子供達を守る、大切な方法すら伝えようとしない。教育も文化も経済も、健康でなくてはおしまいだ。自然と共有しながらささやかながら幸せだった頃はもう戻らない。電車に乗れば若者は座り、ゲームに興じている。まわりに気配り等する余地も無い。豊かさとは何だろう。私は今振り返り古くから大切なもの(それは、高価なものでは無くても、人が手で造りあげた優しいもの)を捨てる事が出来ず、どうしたものか考えている。時代を見て来た物たちが、ここまで残っている事に命すら感じる。しかし、それらを愛しむ心の余裕が今、人は無くしてはいないだろうか?身の丈にあった生き方の中で大切にしたいものを見つけた細やかな歓びをもう一度振り返りながら考える時に想うのである。

今こそ時間を巻き戻してもう一度考えるべきでは無いだろうか?

Kiki's letter on web vol.12

キキ通信 vol.12

2011.11.22.tue.

「想い返す時に」

今年も又、11月の美術館での展覧会が終わった。もう37回目になるのだと想うと考え深いものである。ひと言で30年余りを過ぎると言う事は、そう容易いものでは無い。そして、よくここまで続けてきたものだと振り返ると同時に随分、長い事絵を描いてきたなぁとも思った。今年も東京都美術館は改装の為に休館となっている。その為上野の森美術館での開催に引き続きなった。搬入や審査はスカイツリーが目の前に見える錦糸町の横川倉庫で行われた。今年はこの街の小さなホテルで6日間を過ごしてみた。朝の始まりが早い審査の日はホテルで過ごすのは便利な対策であった。ココシャネルとはいかないが。窓から見える公園の緑と親切なマダムが朝部屋までコーヒーを運んでくれたりフロントにいる若い男性は息子さんらしく毎朝車で審査会場まで送ってくれた。サービスが良いアットホームなホテルはネットで調べて最初に決めた小さなホテルだった。自分の体力に限界を感じた時に、身を引くか?それとも今の自分らしく、やれる所まで続けるか?無理をせずに、だからと言って甘える事は私にとって何より切ない。人前でどんな事があってもよれよれしてはいけない。でも、出来ないと感じたら重い荷物は優しそうな方がそこに見えたら、その方に荷物を預ける。勿論、荷物だけ。自然に会の人達と歩く時は出来る、か弱きマドモアゼル?な気分は長い付き合いの人達だから。今年の5月NEUF展の時に思った。自分は、変わって行く事を。足が不自由な事もあるが体は次第に衰えて行く事を。もう以前の様に振る舞う事は出来ないだろう。もどかしさも感じるが、今自分の存在を確かめてみたい。積み重ねて来たものを壊すのは簡単だけど再び同じ様に積み重ねる事は無理だろう。それなら今の私らしくなる事だ。今の自分を見つける時過去を羨む事は無い。過去があればこその今の私なのだ。今の自分を悔やむ事も無いと。5月になると毎年この会で共に支えあってきた同士で結成された9人の仲間(NEUF展)が、原宿表参道のリビーナで行われる。今年で15年目になる展覧会だ。ここ表参道のケヤキ並木通りに面したギャラリーで今年も又始まったが、自分はもう動いて振る舞え無いのなら、無理する格好はしたくないし人に見せたく無い。だからと言って同じ作家の少ないグループの場合自分だけ何にも動かないのは何とも許せない。いっそ辞めてしまおうか?とも考えた。しかし、どうやら辞める作戦は駄目だった。では、自分らしくするには、どうしたら良いかを考えた。動け無いなら人に動いて貰える場を作ればいい。それが私がやれる事ならと思った。今回は15回展ともあって、ギターリストの聡子さんと森くんに演奏をプロデュースした。快く二人は引き受けてくれてNEUFのリーダーの小澤氏と糸井氏も承諾してくれた。そして、お茶を振る舞う事が出来ないなら違うスタイルで振る舞えばいい。キミコ流カフェコーナーを設置する事にした。何とかこれも承諾してもらえた。その日、手伝ってくれたのは、会の人でもサロンの子でもなく、偶然にも乙女屋さんの紹介で知り合ったばかりのかおるちゃんと言う明るく元気のいい人だった。13日の金曜にギャラリーの片隅で私流カフェはテーブル一つと、椅子二つでオープンした。カップや花瓶や薔薇の花も持ち込んで、小さな空間には自分の居場所が出来た。即席キミコカフェである。表参道の欅の木を見下ろせる硝子窓に面した一日だけのカフェである。ウェイトレスは、ニコニコ顔のかおるちゃんだ。この日作曲家の小林亜星氏ご夫妻が訪ねてくれたが私個人のお客様は他には来なかった。それでも私の自分流は何とか終わった。このギャラリーも思い出深い場所の一つである。4Fのガラス張りの窓側から丁度新緑のケヤキの木を見下ろせる。このビルのオーナーはバレースタジオを最上階で開いている女性で先代の娘さんにあたる方だ。先代は、このビルを設計された建築家で、元気な頃はよく私共のオープニングに見えて酒を一緒に交わされていた事もあった。このギャラリーを4階に設置したのもきっと窓の位置からケヤキの木を見下ろせると云う計算を彼はされていたに違い無い。借りている人達は、そんな事を感じているだろうか?この木にノエルの時期になるとイルミネーションが灯る。何年か前に廃止にされた時期もあったが、最近又復活された。賛否両論もあるだろうが、灯りと云うものは何故か人の心を癒す不思議なものである。時には華やいで時には泪の滴になる時もあるだろう。いつか母が表参道のイルミネーションを観たいと突然言った。余り自分の要求を口に出す人では無くこちらが気をきかせて誘うと必ず最初は断る。誘いが本気かをまるで確かめているかのように。だから母とは殆んど一緒に出かける事は展覧会の時以外は余り無かった。それが何故表参道の灯りを観たいと言ったのかは分からなかった。とても寒い夜だった。私と母が二人して表参道の灯りを見て歩くのは、この夜が最初で最後になった。その年の冬、私が巴里に発つ朝母はひとりであの世に発っていったのだ。長く病に伏す事も無く母の死は突然だった。けれど、母は誰にも告げずにひとり死の準備をしていたらしく、それは、母が居なくなってから分かった。部屋は綺麗に整理されていた。遠い旅支度をするかのような母の部屋だった。

Kiki's letter on web vol.13

キキ通信 vol.13

2011.11.23.wed.

「17年前の冬に想う」

その年の12月、上野の美術館で行われた現代童画会に娘の真由美が50号の油絵を初出品した。母は展覧会に行くのが大好きな人だから祝賀会には娘と初めて参加したのも12月だった。その同じ月の12月10日、真由美は神戸のポートピアホテルで結婚式を挙げた。初めて出品した50号の油絵は、記念すべき嫁入り道具となったのだ。母と並んで私が留め袖を着たのもこれが初めての事。母は梅と松、私は牡丹の花の留め袖だった。真由美とウェディングロードを歩く兄の貴之を見て母は泣いていた。その頃兄も弟の真之もまだ結婚はしていなかったので母は孫娘の真由美の結婚を機会に、滋賀や京都にいる祖父の親族と私を再会させたり自分が果たすべき役目を見届けるかのように振る舞っていた。神戸まで来賓としてお招きした小澤先生からも花嫁の真由美にお祝いの言葉を頂き華やいだ式が終わった。年が明け1月に神戸に嫁いだ真由美夫婦は里帰りと父親の法事も兼ねて帰郷した。再会した家族が揃って食事をした時、母は懐石料理の繕の中で好物の品を、「これ私好きじゃあ無いの。食べて頂戴な!」と男の孫達の繕に置いた。食欲旺盛の男の孫達が、それを食べる仕草を目を細めて眺めている母は何より美味しさを味わっていたのだろう。貴之が以前買ってあげた手提げを、大切そうに母は、この日持っていた。誰から貰ったの?と問うと「彼氏からよ!」と悪戯な目をちょっとクルリとして誇らしげに言う母はその時78歳だった。そんな母だが、自分はもう外を歩かないと云う。ある日ショウウインドウの硝子に自分の姿を見てからだと。母は自分の美学があったらしい。着物をきちんと来て帯から懐中時計を出して絹の傘を持って歩く母はもう居ないのだろうか?その夜は深大寺の「雀のお宿」で食事をしてから、神戸に帰る真由美達を吉祥寺で見送ったのは新幹線も最終に近い時間だったと思う。次の朝何が起きるかは誰が予測しただろう。

朝になり、昨夜笑いながら新居の神戸に帰った娘夫婦の顔が浮かび無事であれ!と祈る事になるとは思ってもいなかった。1ヶ月前、娘が初めて住む神戸の街のイルミネーションを見て、海を眺め美味しい食事をして母が祝ってくれたウェディングドレスを着た真由美と共に見た神戸の街に阪神淡路大震災が襲ったのは平成7年1月17日の朝であった。朝8時真由美の声で無事な一報を聞いた時は体が震えた。これから山道を下り大阪の彼の実家に避難するからと。母はひとり宵待草で、TVに写し出される変わり果てた神戸の街を眺めながらどんな気持ちでいたのだろうか?その頃口数の少なくなった母は風邪気味だからと寝込んでいた。安心の為かかりつけの医者の紹介で大事をとって翌日入院をした。人にとって病院とは無くてはなら無い所である。そこを選ぶのも、自己判断であるが命を預ける医師とそこで出会うのも運命だと思う。かかりつけの個人医院から入院出来る病院を紹介して貰えば信じるのは当然だが、数時間前まで知らなかった医者に自分の命を預け知らぬ薬を投与される事を深く考える事はあまり無い。自分の体の事は全て分からないわけだから専門の医師の判断を信じるしか無いのは事実なのだ。1月22日明け方、母は見知らぬ病院の個室で一人帰らぬ人になった。数時間前母は寒いからタクシーで早く帰りなさいと言った。そして宵待草の二階の部屋から持って来た、菖浦の浴衣を病院のベットで着替えていた。「いやぁね、こんな着方になっちゃって」と胸元を合わせて呟いた。その時明日、巴里に発つ小澤氏からの電話が病院の母の部屋で鳴る。「すみませんねぇ。貴方が巴里で個展をされるのに」と母は言っていた。巴里の個展とは一年前に私自信が現地に行き当時パリに住んでる私をいつも応援してくれていたライターのにむらじゅんこの紹介で企画をした。ギャラリークキさんと契約をして小澤氏に「ジャポネスク」と「麗人伝」の出版も兼ねての展示をプロデュースさせてもらったのてある。22日は巴里に出発の予定の朝だった。「麗人伝」は小澤氏か出版した画集で、母の事を書いた頁があった。小澤氏の言葉に宵待草の母を御茶ノ水の順天堂病院に見舞った時菖浦の浴衣姿の母はまるで夢二のモデルの様でカフェの名を「宵待草」と名付けた。との文章の頁には、小澤氏と母のモノクロ写真が其処にあった。

母をモデルにして店のアプローチの花の絵を描いた小澤氏と母は「宵待草」そのものだった。彼が巴里に発つ朝成田から電話があった。母が亡くなった事を告げた時、電話の向こうからは号泣する彼の声だけが聴こえた。悲しみは後から静かな時間になった時きっと嵐の様に襲ってくるだろう。母の遺言が出てきた。「私は幸せ者。あなたは好きな巴里に行きなさい。」7日後、私は巴里に発った。母の逝った朝、宵待草のスタッフは松本ユカリちゃんだった。「おはようございま~す」と何も知らないユカリちゃんは母にいつもの様に挨拶をしたのだ。声はきっと母にも届いたに違い無い。たとえ返事が無くても。ユカリちゃんはそのまま店を開けた。「どんなに雪が降っても店をやっているのなら決してシャッターを下ろしては駄目よ。もし、一人でもお客様が見えたとしたら気の毒でしょ!」と言う母の言葉通りこの日宵待草はシャッターを閉めなかった。松本ユカリちゃんは母の最後に宵待草で仕事をしたスタッフだ。不思議な事に今も現代童画会で私のアシスタントとしてついて来ているユカリちゃんだ。何年か前、ユカリちゃんは宵待草の前に立つ着物姿の女性の絵を、童画会に出品した。サロンから宵待草のスタッフになり現代童画会の会員として毎年出品する彼女は私が人形を最後に教えた大切な生徒でもあった。ユカリちゃんの人形は「完璧では無いが魂がある」と人形屋佐吉が私に伝えた言葉を借りて私はユカリ人形に伝えたい。今宵待草もサロンも存在はして居ない。過去は忘れ去る物であるとしたら何と儚いものであろうか。形は存在していなくてもその面影も感情も何処かで存在しているのだろう。今たとえ傍に居ない人の心の中にも。

Kiki's letter on web vol.14

キキ通信 vol.14

2011.12.18.sun.

「ノエルが再び」

12月になると世界中で灯りがともる夜が訪れる。子供も大人も人が恋しくなるものだ。静かに神に祈る者もあれば、人と集う者もそれぞれの想いは幸せである事を願う気持には変わりは無い。幼い時私は重い病で学校に通う事が出来ず、近くにある教会で行われていた日曜学校と言う所に毎週通っていた。誰でも参加出来て子供達も沢山いた。祈り讃美歌を聴いた。帰りに小さなエンゼルの絵が描かれたカードと、粗末な焼き菓子だったが、それを貰うのが楽しみで毎週休まずに教会に通ったものである。特に世間を知らぬ無垢な頃に祈りを捧げる聖歌隊の響きは印象的だった。今もこの12月になるとその響きを想い出し、何故か灯りが恋しくなる。あの街のざわめきや盛りだくさんの灯りでは無い。毎年サロン・ド・キキがあった昨年まで人と語り集うお茶会をしていたささやかな時間を思う。サロンと言う企画を行う事になったのもあるきっかけからで空間があったから、それも出来た事であり共にやれる人が居たから出来たサロンでもある。そしてそこに集まる人が居て始まるのだと思う。全てがバランス良く整い通じ会えば笑いも泣きも感情もときめきも生まれる。音楽が聴こえ香りただようお茶とワイン視線に映る灯りや美しい物たち。人々が和む声も顔も私はそれに酔いしれる時こそ幸せに思えた。お茶会を決めたら兎に走らせて伝えようか。アリスのお茶会とは違うけどそんな段取りを決めたら私は椅子に座って見ていよう。演出するのは私で主役は違う。なんて楽しい夜会であろうか。時々同じ様な夢の中にいる時がある。だが、その宴の中に私は居ない。幕間から宴を観る私は自分の演出が成功した満足に満ちていた。しかし、2010年そのサロンが行われていた場所である 「宵待草」が無くなった時、その年のノエルの場所を「うさき館」と言うもうひとつの私の居場所で行った。大阪から「乙女屋」の藤林美保さんも加わった。うさき館はレストランであるからワインとオードブルをスタッフが作り振る舞った。夜になってギターリストの森くんと聡子さんが来た。演奏も「ラ・ボエム」の曲も宵待草のお別れ会と同じだった。夜になって雨が音を立てて降りだしたのも同じだった。これは私の演出では無い、空の神様の悪戯だ。そろそろ私が挨拶をしなくてはならない時間になる。サロンのノエルの夜に共に演じてくれた事にありがとうを伝えた。そしてずっと私が皆と12月のサロンで約束して来た「3つの願い」を話した。1つめは「少し頑張れば出来る事」2つめは「沢山頑張れば出来るかも」3つめは「これは結構大変だけど、いつかきっとやりたい」と言う夢。そんな話をサロンの人に毎年最後の日に約束をしていた事も伝えた。私は今夜のノエルでもうサロンを終わる事にしようと思ったのだ。共に30年一緒に演じてくれた良きオブザーバーだった清人さんに感謝を告げた。思い付きでは無く考えた末の結果だった。そんな時期が来た事を悟ったからだ。最後のサロンのノエルはもう私は幕間には居なかった。舞台の上でカーテンコールの挨拶をしている自分が居た。いつしか雨は一段と強く降りだした。舞台を降りて帰る人は雨の中に遠ざかり私はお疲れ様でしたと頭をさげた。森は街のノエルの灯りもざわめきも無い。宴が終った後はさっき迄皆が居た椅子が残っていた。ただ黒い森の木が私を見ていた。雨はいつしかやんでいた。そして、2011年12月、ノエルが又訪れた。今度は「乙女屋」の美保さんとのプロジェクトで私は一人東京を発った。ノエルを演出するのは私では無かった。私は過去の想い出の記憶を制作する事によって表現し演じるから、もう幕間には居なかった。大阪のノエルの夜は雨では無かった。その日、あの夏の「乙女座物語」と同じ様に珈琲・書籍アラビクさんで私は再びトークイベントを演じていた。不思議な程美しい、満月の夜の事だった。

Kiki's letter on web vol.15

キキ通信 vol.15

2011.12.28.wed.

「今年も残り僅か」

街の華やいだ夜景から、静かな冬の灯りを見ると祈りを捧げる厳かな気持になるものです。ふと静かな冬の夜に出会った灯りの事を思い出す。もう10年以上も前になる、冬のブルージュに立ち寄った時の事である。その灯りの美しさに、祈りたいほど神秘な世界を感じたのであった。飾りたてる事も無く盛りだくさんの灯りも無いのに、でも何故こんなにも美しいのか?豆粒ほどの灯りが路の両脇に  果てし無く続き家々の窓の灯りはカーテンと赤い花の鉢植えの色を程良く照らしていた。無駄なものが無い暗い夜の印象的な遠い街の事を私は今も忘れることはない。余りにも色々な出来事の多かった今年だったが、最後にもう一度、今年を振り返ってみると来年のスケジュールをカレンダーに印をつける準備の一つが始まるのもこの頃だ。良く笑いそして泣いた2011年は私たちのプロジェクトのイベントが続いた。トークショウ、ライヴとクリエイター達がそれぞれ一つになって始まった。いつもの顔もあれば見知らぬ人も遠くの人も、あの頃の人も出逢いの歓びもあれば、別れのレクエイムもあった。一年の内の何日か一日の内の何時間かのその時の空気は戻らないが胸の中で蘇る時はきっと同じ空気が流れるに違い無い。

表現者が集まって演じる事は難しさもあれば調和とバランスがとれた者同士のコラボはそこに又一つの世界が生まれてくる。昨年の12月24日だった。南青山にあるSPACEyuiでの「玩具図譜」fig展の案内を北見隆氏にもらい観に行った。他に東逸子さん建石修志氏との調和は絶妙だった。そこの場所が一つの箱に閉じ込めた遊び場だった。表参道を通り抜けた帰り路は丁度ノエルのイルミネーションを観る人で賑わっていたがその灯りを観ても今みた静かな場所の事が目に浮かぶ。人混みを避けながらようやく千疋屋の窓側の席で山盛りの莓と、白い生クリームと窓から見える沢山の灯りと行き交う人の群れを眺めていたがあの箱が又浮かぶのだった。

そして今年も又同じ場所で展示がある事を北見隆氏からきいた。同じメンバーで同じ場所で同じ時に続ける事も素敵な事だと思った。丁度その日は、久保田恵子さんのsilent music演奏と展示会イヴの前日だった。黒色すみれとアネモネのバニラさん、ピアノ演奏は全て恵子さんだ。ゆかちゃんのアベマリアは当日、喉を痛めているにも関わらず美声の迫力は土壇場でよみがえったプロの信念だと思う。黒色すみれの演奏は宵待草やマリアの心臓、宇野亜喜良氏の舞台で顔を合わせるが今回久保田さん邸silent musicでは初めてだ。さちのヴァイオリン演奏は「シンドラーのリスト」の響きとさっちゃんが一つになっていた。初めて、ピアノを弾く久保田恵子さんに出会ったのはマチルドの酒井晶子さんに誘われて、ここに来た時だった。その美しさと奏でる調べに癒されて帰ると直ぐにその夜、絵を仕上げる事が出来たのである。表現する人の思いが演じられる事程幸せな事は無い。しかしそこまで演じる道のりは決して優しいものでは無いのである。言葉で無い表現のメッセージは長い人生の経験もあるが人と違う何かを誰かが見付けて共に心を通じ合える者が集うと、そこに不思議なハーモニーが始まり何処かで皆つながっているらしい事に気が付く。

2011年の冬2月14日のヴァレンタインの日に、今年最初の展覧会は「森の中の物語」から始まった。会場はペパカフェフォレスト。一番大きい作品はレリーフの「赤づきん」と「豚を抱くアリス」等数点。新作の「物語を読む女の子」はDMにした。この時のDMの絵から久保田恵子さんの「森が奏でる記憶のかけら」の曲が生まれた。このCDは夏の「乙女座物語」に間に合う様に恵子さんが制作をしてくれた。そして収録の中に私の好きな曲「光の子ども」も入れてくれた。恵子さんの館は古いイギリスの家を思わせる。ここで数々の曲が生まれるのだろうか。ヴァレンタインの日に話は戻すと、何故この森のカフェにこんなにも人が来てくれるのだろうと思った。。遠い関西から乙女屋の美保さんは開けから閉めまで私の側に居てくれた。夜になると黒色すみれのゆかちゃんさっちゃんも揃っての夜会はつきなかった。人形作家のMIUさんに誕生ケーキを出して驚ろかせたのもスタッフの段取りも良かったがそれより外がいつの間にか大雪だった事は何よりドラマチックだったが 大雪の中を深夜バスで帰る美保さんは一番大変だったに違い無い。京都でバスが止まってしまった事も後で聞いて、こんな思いをして雪の山を越えて、この日の為に来てくれた美保さん、本当にありがとうです。そして夏には「乙女座物語」が乙女屋の美保さんのプロデュースで開催された。私の初めての大阪での個展だった。アラビクさんでの私のトークイベントも沢山の人の拍手に勇気をもらえた。SERAHIMの中元かおりさんと「キミコ衣装」も金魚さんとのコラボも思い出深いものになった。勿論CDも発売する事が出来た。この夏の共演は、ひと言では書ききれない程のドラマもありこれこそが念願の乙女座物語ではないのだろうか。

そして2011年冬「たったひとりの人への贈り物」をテーマにした毎年サロン・ド・キキでノエルの為の展覧会の言葉を今度は美保さんがプロジェクトしてくれた。こうして尽きる事無く受け継がれた言葉は限り無いメッセージとなり絵や音楽や物語が始まるから終ることは無いのだ。

今年も残り少なく一年が夢の様に過ぎて行った。森の屋根裏に戻れ無くなって4ヶ月余り夏の乙女座から季節は過ぎ森に木枯らしの吹く夜に私はうさぎ館の屋根裏を久しぶりに見た。ベランダのローズマリーは枯れて通路の壁は壊されていた。残った柱は白いペンキを塗ってあったが夜の冬空にいかにもそれが寒々しく暗い森に白く残された屋根裏はもう私が戻る場所では無いと私は暗い路を歩きながら振り返って思った。

今年の終りに再び想う事は来年は再生の年を迎える為に再び又演じる夢を追い続けて行こう。残された時間のある限り、あの日を忘れること無くひとつひとつのドラマの始まりを大切にしたい。私の物語はまだ終りそうも無い。2012年2月14日のヴァレンタインのイヴの夜13日にもう一度同じ場所ペパカフェフォレストで夜会の集まりのお誘いをそっと教えましょう。また詳細は来年早々に「キキ通信」でお知らせいたします。予約受付は一ヶ月前からです。

では寒い冬こそ

静かな時間を過ごして新しい年に希望を見付けましょう。

どうぞ来年もよろしく。

またお会いする日をお待ちしております。

素敵な年になりますように、良いお年をお迎え下さい。

 

吉田 キミコ  2011.12

Kiki's letter on web vol.16

キキ通信 vol.16

2012.1.10.tue.

Bonne Annee! 2012年 アケマシテ オメデトウゴザイマス

新しい年になって初めてのキキ通信です。

皆さまどんな新年を迎えられましたでしょうか。

昨年が余りにも変化の多い年でしたから、2011年が終る寸前まで、考え深く自分を追い詰めたり切り放したりの慌ただしい年でもありました。そして新しく訪れる年をまるでゲストとしてお招きするかの様にやけに身構えておりました。悲しみや辛さ等は切り捨て再生の年にしょうと意気込んでもおりました。

新しい年がカウントされると人々は歓声をあげて祝う人も、静かに祈る人も、世界中の誰しもが願う。

「平和であれ、健やかに幸せであれ」と。

そして私はと言うと、元日から3日の間来る日もくる日も眠り続けておりました。いつも出来ない怠けた時間を過ごすなんてこんな贅沢は無いと思いました。時間が止まった様に静かでした。たった一人で0からの再生と考える時間でした。今日、ここに訪ねる人も居ない、私が行く所も無い、一人と言う時間が今ここにある。電話の鳴る音や、向こう側の声も、傍に居ない人と交わう言葉の時間もあれば音も、声も無く人と交わう時間もある。敏速に意思を伝える事が出来る不思議なインターネットはすぐに答えてくれた。依存する事は無いがただ機械文明によって人が進化する時代であるなら少しばかり伝えたい意思の表現の為に使えばいいとスティーブ・ジョブズさんを今更有りがたく思ってみたりする。夜になって目をつむり考える。30年も40年も過ぎて走りつくしたあの時間の事を。すると今、私がやれる事の総集編をやらなくてはと思った。

そんな訳で私は3日間の眠りで充電した訳です。

Kiki's letter on web vol.17

キキ通信 vol.17

2012.1.11.wed.

2012.1.

(2月「ヴァレンタインに贈る言葉」出展予定)

Galleryページ「言葉」

4日の朝お墓まいりに行った。陽ざしの柔らかい朝は風も無く寒さを感じなかった。突然暗い雲が丁度真上の空に出てちらりと白い雪の結晶が落ちてきた。と思う間も無く直ぐにお陽さまが出て雪はすぐ消えた。一瞬の自然の出来事にそれは天国からの聴こえはしないが声にも思えた。キラキラとした雪の結晶がわずか3分の短い言葉にも感じた。私は正月から眠り過ぎてまだ寝惚けているのだろうか。言葉は聴こえ無くても感じればいい。無機質なデジタルの文字にも心が通う言葉もあるが伝えなくては分からない事も、伝えても分からない事もある。

印刷物だけの年賀はがきなら光るだけの画面の文字の方が、いいといいながら、もう少ししたら忘れた頃に盛りだくさんの手書きの言葉を伝えるからと、勝手に決めている私は都合の良い言い訳をしながら、今日もポストに何も投函せずのままだ。

なにも無い今、ただ何事も無く変わりないこの幸せに感謝しよう。のらくらと眠れた3日間は空想の旅行だった。休めた体は、もうじっとしては、いられないから空想の夢から現実に覚めなくては。ひと言で再生なんて言っても何にも無い所からポツリと産まれ変われる訳ではあるまい。今まで長い時間をかけて積み重ねては壊れて拾い集めた繰り返しの時間の重さを忘れてはならない。

眠りを取り戻した様にその次の日の私のスケジュールは秒読みだった。今までサポートしてデジタルを繋いでくれた南千晶さん、デザインアシスタントの江津匡士さんに急に連絡をした。ぺパカフェフォレストの、直樹と今夜《ヴァレンタイン・イヴの夜会》の打ち合わせをしてるから、もし良かったら、一緒にプロジェクトの話合いをしないか?との突然の呼び出しをしてしまったが、あの忙しい 二人が来る訳は無いだろうと思っていた。ところが二人は揃って時間通りにここに現れた。新年のサプライズの様に。南さんは来月から、しばらくはNYでの暮らしになる。しかしインターネットは関係無く繋がってくれるから大丈夫だと。サロンから童画会への流れにも逆らわず今も、一緒にデザイン・アシスタントの仕事も、デジタルのサポートもしてくれる江津さんは小澤清人氏の一番弟子と言うお墨付き迄付いてしまったが、その付き合いはもう20年にもなるだろうか。仕事でありながらも支える気持の絆は大きなエネルギーとなるものだ。役割分担した形は、ひとつになって何かが起きる。前ぶれの予感を感じた。それはひとつの言葉から始まった。

話合いは3時間になりフォレストでの夕食はスパイシーな香りが漂い、熱いその夜の、トンヤムクンが実に美味かった。帰ると、乙女屋の美保さんに mail をした。こうなると mail では収まらず、美保さんの弾む生の声を耳にした。電話でのマネージメント企画会議は、その夜深夜2時まで続いた。そして、事務所のサイトのアドレスや名前の事まで進み耳は電話の声を聴き、目はフランス語の辞書を視て、言葉は声でそれを伝える。もう遅いから明日にしようなんてお互いに思わなかった。フランス語のフレーズに私が思う様なイメージばかりを願うのもおかしな話だ。意味は謎めき、響きも良く、甘く無く、知らぬ者の戯言にすぎない。言葉ばかりが、ポエムの様に巡った。たかが名前にここまで熱くなるのも気持の高ぶりからだろう。結局、以前南さんが付けてくれたシンプルだけど私には重いが 普通な形で収まった。

5年前に、やはり知識不足の私が苦しまぎれに思いついた <lievre> <野うさぎ> は一瞬のひらめきだった。<Cafe du lievre うさぎ館 > は何故野うさぎかと、よくきかれる。余り世間で使われていない野うさぎと思ったが最近はうさぎが、よく登場している。ある時、中性的なウサギが私の作品の中に現れた。それからは、いつしか私はウサギを描いていた。ひとつのフレーズにしても旋律にしても楽譜や文法から逃げ出すことは出来ないのである。私はデッサンという基本から逃げて、衣装のパターンや原型の基礎からも逃げてきた。イメージだけが先走り人形の型取りも関節を繋げる技術的な事も放棄した。

何年か前になるが四ツ谷シモン氏と精神科医の藤田氏が対談の後に行われたレセプションの席で人形に対して逃避する自分の事について話していた。アルコールの席でもあるせいかその時の私は、随分、生意気な理屈ばかり言っていたようだ。最後に逃げるよりぶつかればいい!と藤田氏に言われた記憶がある。

天野可淡と生前、お互いの悩みを長い時間さらけ出して話した時も、やはり人形の球体関節や型取りが出来ない自分を語った。その時、型どりする職人になるならその時間にオリジナルをつくればと、そして球体関節が嫌なら辞めればと、いとも簡単に言うでは無いか「あんたはあんたの良さを出せばいいじゃん」と煙草の煙の向こうで可淡は笑っていた様に思えた。バイク事故でさっさとあの世に行く少し前の事だった。

そこまでして人形を創る事から離れ、人形の服をデザインして作れたらという思いから逃げだしたのには、ある時、信頼という絆を失ったショックからだった。逃避する自分が、みじめでならなく逃げた場所がどういう訳かパリだった。忘れようとの思いからフランス語を学んだが今だ途中で止まったままだ。

全ての基本から逃げたしあらゆる壁にぶつかった自分はもうこれを越えるなんて、今更考える事も無い。しかし、私には長い時間ここまで来た道のりがあるではないか。たとえ壁の向こうに何かあっても、それを達成出来なくても今までの道のりが私の全てだからこの先無理して越える事も無いだろう。今迄に、こんなにも出会った人が居てこんなにも失った過去もある。だからこそこれからの私は過去と今を思う作品のイメージを、ありのままを蘇ればいいと思った。

人はひとりでは何も出来無いのだから。今、こうして私をサポートしてくれる若い人達は仕事をのりこえた心がそこにある。これだと言うきめても無い私に沢山の人達が観ていてくれる。

これぞ私の力の源なのである。そして大切な財産でもある。

生きるという事はそれだけで何て幸せなことかと新しい年に私は深い眠りから覚めた後に思った。

これからの一年はきっと不思議な何かが起きそうな予感がする。と

Kiki's letter on web vol.18

キキ通信 vol.18

2012.1.27.fri.

1/23日の夜、東京に雪が降り積もった。私はこの日、朝から出かけていた。夕方近く帰る頃には、今にも雪になりそうな、冷たい雨が降りだしていた。家に帰ってから気が付くと、白い雪はもう、はらはらと落ちていた。夜、アシスタントのチエちゃんが電話で「キミコさん雪ですよ」と教えてくれた。長い付き合いになるとおそらく私の雪が好きな事もチエちゃんは知っていたのだろう。その日の朝は、私は早く家を出て一時間余り、ひとり総武線の電車に乗っていた。いつもより、落ち着いた気持で身支度をすると髪に、黒いリボンを付けた。このリボンは帽子に付けたり、髪留めにしたり、手提げに付けたり、いつものリボンである。何故だろうか今でもボンボンや、リボンとレースが、やはり気になる。昔「ジュニアそれいゆ」という本に中原淳一の、スタイル画のページがあった。そのスタイル画を切り抜き、ペーパードールの様にリボンを張り付け、レースの衿をつけ交えて楽しんでいたものだ。その頃は今の様に豊富な服飾の本等無い時代で一冊の本を何度も大切に読みかえしては、わくわくした。あの頃の気持は今も忘れない。服が無ければ衣装を工夫した。物が無くても、それも楽しく思えた。今の私はいつも黒い服ばかり着ている。そんな私には、礼服の様なフォーマルな服が無い。けれど、私の黒い服は、何度もよみがえる。レースの衿を付け、袖口に糸のボンボンを付ける、布花のコサージュを胸に飾り、リボンを替えると服は又生まれ変わる。布花の花飾りは、かわい金魚さんの創作で、いつしか箱の中は、布花で一杯になった。

この日だけ、ひとつ引き出しの中から取り出した物がある。それは、母の形見の紅い珊瑚の数珠だった。

その年のその月の、同じその日に何が起きるのか誰も知らない。逢えた喜びも、別れを泪することも又ひとつの暦が始まり過ぎて行く。心の想いも命あればこそと、限りある日々に伝える言葉を表現出来たらいい。その日付けは、幾年前と同じなら、その日の自然の色や風の香りが人の心を呼び覚まし想いを募る言葉となり、美しさだけが絵になるだろう。もし、そこに旋律があれば、もしそこに言葉があれば記憶の中で永遠の命として生きているのではなかろうか。人には五感という箱がありそこに閉じ込めておいたものが、いつか開かれる時がある。豊かさや貧しさも繰り返しかわる。豊かな感情は資産を積んで得るものでは無い。幾度となく感じた、悦びや哀しみの数の分箱は一杯になり今の幸せに気付くのだ。2012年の1月も日々過ぎて行く。私の箱はもう溢れそうになってしまった。忘れてはならない過去もあるが、忘れて行く過去が、もうそろそろ箱から外に逃げ出して行くだろう。私の体から記憶が退化する日が来る前に言葉を並べて吐き出しては晒している。誰かの心に留まる事でもなく、誰かに理解されるものでも無くてよい。ただ、ひたすら、その日が過ぎ自分の肉体が朽果てる前にこの言葉綴りを繰り返したいと、そう思う事が出来る今が大切でならないから、過ぎる時間がいとしく思う。訪れるその時が一秒毎に失われても失われる事の無いものが風になくどこかに存在すると私は今も信じている。だから悔いの無いひと時に胸熱くなり、本音で美しいものとは何かと思う。

雪溶けの朝は輝き、恵みの太陽を受けとめながら輝いていた。

自然の美しさに癒される事を忘れてはならない。

何も無い朝を迎える一日がまた始まった。

Kiki's letter on web vol.19

キキ通信 vol.19

2012.2.19.sun.

2012.2.12 ヴァレンタインに贈る言葉初日のスタートは18時からとなったのは、この日フォレストで結婚披露宴が17時まで行われる予約が入った為で搬入は17時にしたものの披露宴のお客様は、まだ少し残っている様子。赤帽の小林さんは、車をフォレストの裏に止めると、いつもの馴れた手際よさで荷を下ろして行く。本当は会場の間近まで、車を寄せて運びたかったが通行許可を取れば可能と分かっていても目立つ事は、なるべく避けたいので、裏側の階段から運ばなくてはならなかった。そんな時、今日関西から新幹線で着き、吉祥寺東急インにチェックインして直ぐ、ホテルから、走り込んで来てくれた、乙女屋の藤林美保さんは笑顔で階段の下から駆け上がってくる。昨年、関西でのノエルの展示以来の再会に私たちは喜びの声をあげる。小柄のルルさんも、やはりいつもの様にさいたまから合流して、相変わらずスタッフの様に付き添って来てくれた。作品や荷物は、ようやく店内に運んだものの、オープン迄の時間は、30分を切っていた。18時に店も同時に開店するから、ここでゴタゴタしてはいられない。テープで張り付けたりドライバーでフレームを設置したり配置や照明やテーブルの設定など指図する声が次第に大きくなる。3人共笑顔こそ無かったが意思のそつが伝わっているから動きのバランスが良く、時間が迫るがよーいスタートの早さのタイミングは見事にセーフだった。オープンと同時に流れる様に次々とお客様が入ってくる。間々田尚子ちゃんと花野ちゃんが一番のりのお客様。尚子ちゃんはサロン・ド・キキの古い生徒でベアーやパンダウサギを製作していた。もう、ずっと以前の宵待草の、古いスタッフでもあった。何年前の事だったかフォーシーズンズホテルで行われた尚子ちゃんの結婚式に招かれた時尚子ちゃんの主審で挨拶をした小澤清人氏は我が子の様な自慢話をしていた。新郎側の、高橋睦郎氏もやはり、ご自慢をされていたのが微笑ましく思えた。花野ちゃんが、産まれて、今はもう背丈も追い越されそうな少女になっていた。花野ちゃんの名前は高橋睦郎氏が付けて下さったそうで詩の様に美しい名前だ。久しぶりに会っても変わり無い笑顔は、たとえ場所を失ってもその記憶は失ってはいないからだろう。尚子ちゃんのあの時のパンダウサギに又会いたくなったので、もう一度創る約束をこの日交してしまった。このウサギは小澤清人氏の描く絵の中にもいる。その時博子ちやんが来た。小さな女の子、こちらも花ちゃんを連れていた。博子ちゃんもやはりサロンから宵待草のスタッフになり、「キミコ衣装」の撮影の時は夜明かしの縫製を受け持って仕上げてくれた。人形の服を作るのも博子ちゃんの仕事で、上等な衣装を着た人形は「マリアの心臓」で展示した私の最後の少年の人形だった。今は一生三宅氏の元で長い間、仕事をしているがパリコレクションの頃は忙しくパリで仕事もしていた。偶然だかコラージュの為に気に入ったビクトリアンのカードの中にまぎれて文字の書かれたグリーティングカードを丁度その日の朝見付けた。何年か前の古いカードはすみれのブーケを持つ手で裏面にメッセージの文字が書かれている。

 

キミコさんへ

お誕生日オメデトウございます。

なかなかサロンも来れませんが、

オザワ先生 キミコさん 宵待草 のこと

いつもいつも想っています。

ヒロコ

 

今、宵待草(人形館ギャラリー)もサロン・ド・キキも、私がそこに存在して居ないだけで実在はしている。けれど、そこに吉田キミコと言う一人の人間が存在して居ないだけの事である。その場所の空間にドアーを開けて一歩入った時、漂う空気はテーブルに置いた花一輪にも感じられるもので、それは呼吸をしている生命だから誰にでも簡単に出来るのなら苦労もこだわりも必要では無い。ひとつの主流さえ、しっかりしていれば川が流れて行く様に、何処かで合流して大きな海原へと旅立って行く。思いがひとつなら枝はそれぞれ流れて行くが合流出来ないものの違いは塞き止める事は出来ない。人の感性や生きたプロセスの違いはそれぞれであり対岸から静かに見守りながら我が道を行くのが今の私であるなら、最終地点までの残り少ない距離を自分らしく過ごしたい。良き理解者にも恵まれながらも、去る人もいる。我が道を行き、過去は振り返らないと言っても、その過去があればこそ、今の私であるのだから人生の過去は貴いのである。

ヴァレンタインの初日の夜美保さんとルルさんの宿泊してるホテルの部屋で、恒例の酒盛を交して3月のプロジェクトについて話合った。ホテルから私が帰ったのは午前2時だった。深夜のこの時間こそホテルでの有効な時間である。13日は12時の店オープン前に展示の為会場で又落ち合う。そしてパリから到着して空港から直接ここで山下美千代さんと合流する予定である。3月の企画をランチしながらの打ち合わせの予定だ。そして夜はヴァレンタインイヴの晩餐会になる。初日の夜、私が帰宅してから眠ったのはかれこれ夜も明けた頃だがどうやらホテルの二人はあれから話の続きをしていたらしい。それにしても大阪でも東京でもホテルトークはコンビニのマヨ味スナックやチーズをつまみに缶ビールでは乙女の親父もどきでは無いか。しかし会話の内容は何とも美学の真相を語り尽しているのである。

次はヴァレンタインのイヴまで ボンニュイ

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