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Kiki's letter on web vol.0

キキ通信 vol.0

2011.10.7.fri.

お久しぶりですね。元気にしていますか?

昨年の10月に宵待草から離れて

もうすぐ1年が過ぎようとしています。

秋が訪れると懐かしくなるものですね。

覚えていますか? サロン・ド・キキの事を。

それからキキ通信の事も

もう忘れてしまいそうだから、

もう一度 伝える言葉を 書いて見ようかと

そんな気がして今度は封書をポストに入れるのでは無く

いつでも扉を開いたら画像の中での通信でお話したいと思います。

Kiki's letter on web vol.1

キキ通信 vol.1

2011.10.9.sun.

懐かしさを偲ぶ前に、昨年の春の話から始めましょうか。

井の頭公園の森の中は季節の風を一番先に感じる場所です。

ここに カフェと言う空間を作ってから

もう4年目の春になりました。

そして屋根裏のアトリエに何となく住むようになって

かれこれ3年が過ぎようとしています。

それは一つの出来事から始まり、そんなシナリオは無いのに、

出逢いがあり終わっていき 続き 過ぎて行く。

時がどんどん流れていって、その中でいくつかの、

忘れる事は無い物語がページを綴じていくのです。

春は予感の始まりでもあり

新しい季節の訪れに長い冬の重いベールを剥ぐ時でもあります。

私は少し疲れたのでしょうか。

自分が今やるべき事を考えていく時が来たのではないかと、

ふと思うようになりました。

もし もっと若かったら こんな時 ぽつりと旅に出るのだろうと。

本当の自分捜しは続き、何かが起きた時

沢山の過ぎた時間から残された時間への旅立ちが今、

始まろうとしているのかも知れません。

Kiki's letter on web vol.2

キキ通信 vol.2

2011.10.10.mon.

人は ともすれば、忘れているだろうか、

日常の 普通の生活の 当たり前な日々の事を。

いつもと同じように朝が来て

私は ベットから目を覚ますと 立ち上がり 窓を開ける。

まだ昇りかけたばかりの、陽射しは和かくベランダに落ちていた。

う~んと 手足を伸ばして ふ~っと 深い呼吸をして

空気を胸一杯に吸い込んでみる。

それから 冷たい水で 顔を洗い 熱い湯を カップに注ぎ

薫りのいい お茶に喉を潤す。

ただ なんでも無い朝から 普通の一日が 始まる。

始まるのは いつも朝。

ゆうべ私は 笑い 泣き、 そして眠って夢を見た。

明日になれば又 きっと朝が来る事を 私は知っていたから、

何にも無い時間の幸せも 私は信じていた。

Kiki's letter on web vol.3

キキ通信 vol.3

2015.6.25.thu.

「決断の時」

季節が 終わるのが早い様に

一年は アッと言う間に過ぎていくもの。

だから、四季の訪れと共に 自分にとって、

その季節にやれるテーマを考える。

それが私流と言うか

そんな決め事を 常に考えているのが 好きなのか、

決め無いと どうにも落ち着かない、

いや 怠けてしまう自分への作戦としての手段だろうか。

だからと言って物事を 完璧に、やれる私では無い。

自信は無いが、少しばかりの希望があれば、

運命の神様は 私を見捨て無い事だってあった。

小さな積み重ねが ある日

大きな夢となって叶えられた不思議な出来事もあった。

路に迷って出口が見えず 迷路をさ迷って決めた自分の行き場所。

悔いは残らなかった。

迷い路を戻る事も無く出口に辿り着けた。

何故か心が穏やかになった。

 

そして、2010年と言う 節目時に 私は 大きな決断をした。

それは春から秋にかけて悩み 10月に心を決めた。

30年目の秋に 母から受け継いだ

「人形館カフェギャラリー宵待草」

を閉館にすると言う決断だった。

 

旅の身支度をする様に 身の周りの荷物をまとめた。

それから、旅立ちのセレモニーの企画をする。

いよいよ お別れの幕を閉じる時が来た。

フィナーレは

好きな演者奏「黒色すみれ」「月と薔薇」に 曲を依頼した、

その場所の舞台役者は

カーテンコールの毎き整列をする作家小澤清人氏の絵だ。

無言な目差しで 来賓に向かって語っていた。

幸運にも 私は 亡き母の面影を偲ばせる絵を、

その日 飾る事が出来たのは

弥生美術館の中村圭子氏の協力もあった事に感謝をしたい。

そして、 この決断をする きっかけを 与えてくれたくれた

乙女屋の藤林美保さんと この年の3月に出会った事から

私の作品への 新しいシナリオが 始まった。

幕を閉じて、又 繰り返されるドラマの幕開けになるのだろうか?

Kiki's letter on web vol.4

キキ通信 vol.4

2011.10.13.thu.

「さよならの夜は、いつも雨」その1

いよいよ お別れ会の当日になった。

カフェのキッチンでは、見慣れた顔の

懐かしいスタッフ達が揃って 手際良く 動いている。

今夜の特別な お客様の為に、

配慮の行き届いた 用意が出来るかが気になる。

ここには、いつもと変わらず、

レトロな 赤いダイヤガラスの窓もあり、

30年の間 何人もの人が 開いてきた、

シンチュウのドアノブの扉も、

使い古した、それぞれの形の椅子達も、

最後の、お客様を 迎える為に、とりすましていた。

夕刻近くになると 雨になった。

10月にしては寒い雨の夜になったが

次々に訪れる お客様の熱気で ここはもう溢れていた。

創立30年を 迎えて

此処の場所で 出会った方は 数え切れない程になる。

作曲家の 小林亜星先生からも 弥生美術館の中村圭子さまも、

マリアの心臓の片岡佐吉氏も、

メッセージの言葉は 有りがたかった。

この場所を失うのは無念だが、

これからは吉田キミコが制作者として作品を表現して欲しいと。

Kiki's letter on web vol.5

キキ通信 vol.5

2011.10.14.fri.

「雨音の調べに寄せて」

まさに最後の晩餐会に ふさわしい夜だった。

そして華やいで泣いた夜だった。

その頃になると雨は本降りに なっていた。

外で傘をさしてカメラをむけている中村氏はカメラアングルの捕え方が巧いので、私は気に入っているが雨の中を申し訳け無く思う。編集の安田さんは窓側から、立ったままビデオをまわしていた。奥で写真をずっと撮っているのは、ジャパガの江津匡氏で、彼はもう15年余り小澤清人氏と私のデザインアシスタントとしても仕事をしていている。今回の最後の展示にも参加してもらった。北島香織さんはサロンの生徒の一期生ともいえる。当時と変わらぬビクトリアンのスタイルの美しい姿で今も小原孝氏の元で音楽の仕事をしている。オトメチカの金田アツ子さんはやはりサロンの生徒から始まり、13年ここの空間の主の様な存在で私の「キミコ衣装」の良く似合う女性になった。そして一番長い事ついて来てくれた。布花コサージュ作家かわい金魚さんは、自分自身がコサージュの様な可愛くて変わらない頑張り屋の人。そして、この場所で最後のスタッフになったばかりの山村聡子さんは、スペインフォルクローレのギターの弾き語りが巧い人。各々の仕事を持ち夢を忘れず何年も変わらず関わってくれた人が集結していたが、一緒に仕事をこの場所で過ごした事を今、何処かで思い出してくれているだろう人達の事を私は何時だって忘れては居ない!とこの場を借りてありがとうを伝えたい。

 

30年の流れは、こうして過ぎていったが、これからは1年でも、それは儚いものであり限られた時間は残り少ない。だからこそ大切にしたい想い出と言う映像の脚本を私は描いてみたくなったのだ。自分が例え、記憶喪失になったとしても、読み返したい記録は私の大切なドキュメントとして忘れる事は無いだろうから。一体誰が読み返すのかでは無く人様にとったらどうでもいい話に違いないのだが、私にとってのナルシストな言葉綴りを理解して頂きたい。

 

そろそろライヴが始まる時間になった。ヴイオラとチェロは降り頻る雨音と融合して何とも不思議な音色になって聴こえてくる。「青い月と赤い薔薇」の青月泰山氏の横顔も美少年のように美しいが人形にも似た愛くるしい、さちさんは絵の様だ。奏でる調べはあの大正時代の作家竹久夢二の「宵待草」から始まる。

それでは、ここで今宵お招きした、お客様を改めてご紹介させて頂きます事をお許し下さい。最初にお言葉を頂いた、小林亜星先生ご夫妻、弥生美術館の中村圭子さん、マリアの心臓の片岡佐吉氏、ご子息であり映画監督の片岡翔氏、そして大阪から来て下さった乙女屋の藤林美保さん、パジコの木村社長ご夫妻、サロンの長老と言われた村山氏ご夫妻、音楽家の久保田恵子さん、画家の北見隆氏、七戸優氏、マチルドの酒井晶子さん、銀座アートポックスの市村さんと金森さん、マガジンハウスの藤森さん、童画会の糸井氏楢原氏嵐柴氏、イラストレーターの石森愛彦氏と加藤美紀さん、翻訳家の松田氏、出版編集の安田さん、いつも搬入出てお世話をかけている小林氏、他沢山のお世話になった方々がここにお越し頂いた感謝は言葉では尽きぬ程のものであります。

後半は、アコーディオンを弾くヴォーカルの黒色すみれユカちゃんの、再び宵待草を奏でる。ユカちゃんは、まるで和風オベラの様だ。オリジナル曲「プアゾン」「サーカス」も好きな曲であるが、やはり趣きのある「黒色すみれ」はあの監督ティムバートンのお気に入りと言うのも理解出来る。最後にチェロの青月泰山氏が私のリクエストの曲パブロ・カザルスの「鳥」を弾いてくれた。やはり音楽は泣けると想った。心の印象に深く残るものであると言う事を改めて感じた。私がこの空間で、えがいて居た理想の夢物語は壁には絵があり窓からは季節を感じる公園の森があり、そこに聴こえるてくる調べ、香り深い飲み物で喉を潤したら、夢を語り希望に胸を躍らせる。たとえ叶わぬ夢であろうと話してみる。だからそこにテーブルと椅子のある人と語るカフェと言う場所を造ったのだった。エコールド・パリの頃文化や芸術がカフェから華開いた事も確かでは無いだろうか。そしてサロン・ド・キキが始まったのもこの場所からだった。

そろそろ宵待草からお別れする時間です。この場所の名前は、画家の小澤清人氏が、着物の似合う私の母に出会った時に、母のイメージで名づけられた時母は幸せそうに見えた。15年の間亡くなるまで母はこの場所を離れなかった。この場所の空間は彼の絵のメリーゴーランドにも似た玩具箱の様だった。30年の絵物語の入り口には大きく描かれた彼の花のブーケが、アーチの様に灯りに照らされている。今宵、彼は最後に来賓に深く頭を下げると自分の絵箱の中から立ち去って行った。それから彼はもう二度とこの場所には来なかった。

そろそろ、このお話も終わる時間にしましょう。夜も更けて遠くに帰る乙女屋の美保さんも最後の扉から外に出る時間です。降り頻る雨で燈る灯りが霞んでいた。泪で灯りはもっと霞み雨音と共に聴こえる泣き声は、すすり泣きでは無く号泣だった。何度も手を振り遠ざかる彼女の姿は駅の灯りの中に消えて行った。後で私は何故プラットホームまでついて行き走りさる電車から手を振る美保さんを 見送らなかったのか後悔してならなかった。

 

今から1年前の2010年10月の回想シーンである。

そして今年2011年10月23日に

片岡佐吉氏の「マリアの心臓」が幕を閉じる事になった。

「黒色すみれ」の調べがここで又聴く事になる。

思えば「マリアの心臓」の幕開けの時に

私に長い冬眠から覚めなさい!と呼び起こして

再び人形を創る事が出来たのは、片岡佐吉氏の言葉からだった。

私は例え寒くても、まだ冬眠はしない事にしよう。

いつか眠る時が来るまで

私は物語のページは、まだ綴じるのはやめようと。

この話を書いて居ると片岡佐吉氏からの電話が鳴る。

「キミコさん!マリアの最後の日には小澤清人氏と来てよ!」

と言って電話は切れた。

今日の大阪は雨らしい。

今頃、乙女屋の美保さんは雨音を聴いているだろうか?

Kiki's letter on web vol.6

キキ通信 vol.6

2011.10.16.sun.

華やかだった最後のセレモニーが終わり

30年の幕がおりると静かな朝が来た。

さあ 舞台の道具を 片付ける番だ。

祭りの後の仕事は山積みにある。そんな時、スタッフだった人達が自主的に集まって来た。ガラスケースの中の小物もティディベアーもアンティークカップソーサーや絵本も彼女達は私以上に懐かしいと騒いでいる。丁寧に、それをダンボールに詰めると思い出話しがはじまった。

金田アツ子、田中亜由美、遠藤亜矢子、松本ゆかり、出口美和、何年も前になるが彼女達はここで自己表現をして仕事をしていた。眠らない夜の泣き笑いの声は翌朝まで続き本日の演奏者は、又しても、どしゃ降りの雨の音だった。荷物は箱につめられて、空っぽになったガラス戸棚は役目を終えて、其処にあった。がらんとした場所にはダンボールが積まれて行く。

翌日の午後になると赤帽の小林さんが誰よりも急がしく荷物を運び出して行った。すべてはコンテナの中に収められる物達で、ただの荷物に過ぎなくなった。母が一番お気に入りだった、すずらんの花の絵がある硝子戸棚が運び出された。次第に人形や絵も、家具も無くなった部屋になる。残ったのは磨き込まれた木の床と赤い菱型のガラスの窓だけで、妙に母の存在か其処にあった。一階のカフェには古いテーブルや椅子、天井から吊られたアンティークの照明があるがそのまま置いて行く事にした。建物は壊す事無く、次の新しい人の要望もあって残す事になった。アーチ型の大きな花の絵も、全てそのまま変わら無いが、明日から、生きて空気を流す人はもう私では無い。花を描いた作家の存在も母のイメージで名付けたこの文字も過去の映像でしかない。時代や人は永遠ではなく失われていくものだが、そこで交わった絵や音楽や人の出逢いは永遠に失われる事はないのだ。記憶の中で語りよみがえり再び若い人の心の何処かで新しく生まれ代わる日がいつかあればと願いながら、私はここの場所に別れを告げた。

Kiki's letter on web vol.7

キキ通信 vol.7

2011.10.17.mon.

2010.11.

(上野の森美術館展示)

Galleryページ「落日」

「落日」

11月、この月になるともう、すっかり秋の装いと共に木立ちも色を染めて季節の変化を感じます。36回を重ねた「現代童画会」の出品を振り返ると上野の森も馴染み深いものだと思うのです。美術館に足を運び搬入出から審査展示に至るまで毎年繰り返されたこの作業はよく続いたものかと思う。本当は私は団体の行動が苦手で、自分は人と馴染めず孤立した人間であるからこの自分を変える事は到底不可能であると決めつけていた。何回か苦痛で辞めてしまいたいと思う事が度々あった事も事実である。それでも私をここまで思い止まらせたのは母とある画家だった。親と言う者は世間で通称言われる親馬鹿と言うのだろうか、当時を振り返ればそんな母親に私はそっけ無くあしらいながらも、親でもやはり褒めてもらえば木にも登る。母は生きがいの様に私を褒めまくり美術館に行く時はお召めし替えをして何とも見ていて微笑ましくもあった。銀座のギャラリーに出かける時は、前の夜には半襟や帯留めを並べては選ぶその姿は乙女の様に見えた。半襟は市販の物では無く、半切れを並べては自分で作っていた。それは中原淳一がレースの替え襟を作る当時のスタイルブックを見ている様に思えた。銀座に行く時は黒いシルクの日傘を持って行く。それは日傘として使わない。持って歩きたいのだろうそれともギャラリーに居る 贈り主に「どお?素敵でしょ?」と言いたいのか?母をモデルにして描いた小澤氏からの贈り物であるから大切にしている日傘である。日傘の柄にはアンティークのアイボリーがレリーフされ、それは美しく繊細で壊れそうに思えた。母は、いつも長居はせずにさっさと帰って行った。夕暮れ時の銀座の路にもう遠く影の様に独り帰って行く母の後ろ姿が見えた。ギャラリーでは懇親会で賑わって居る。何事も無く酒盛が続き誰ひとりとして母の存在を知る人も無い。母がこの世を去って長い歳月が過ぎ自分が今、そんな母に似て来た様に思えるのは不思議なものである。2010年に失ったものを振り返りなすがままに画いたのが「落日」と言う絵になった。

Kiki's letter on web vol.8

キキ通信 vol.8

2011.10.19.wed.

「サロン・ド・キキのこと」

「サロン・ド・キキ」はカフェ宵待草と言う場所で語る時間を作る事から始まった。語る人は小澤清人氏で私は企画をした。丁度カフェ開店から10年目の時である。日々、何事も無く過ぎて行くのは確かに幸せな事に違い無い。しかし、そんな日々の中で折角与えられた箱の中だから、少し物を列び替えたり、新しく空気を流してみたりするのも面白いのでは?と考えた。けれど、ままごと遊びの様に私が独り楽しむ事では無い。そこには、人との関わり方や、一番苦手である付き合い方が現実になってしまうのでは?とも思う。当時カフェのスタッフで長く仕事をしていたのは、学習院大学仏文学科のインテリで、ちょっと生意気な中島君。彼は私のいい喧嘩の相方だった。そして喋り方が可愛く市松人形みたいな髪型が似合う素直な千恵ちゃんとケーキ造りをしながら、落ち着いてお客様との接客をしていた私の娘真由美。店の奥の席では若い人と話している着物姿の母が居た。そんな母は、幸せな晩年だったのだろうかと、今になって想う。しかし私は母と一緒に居る事が、余りにも少なかった。むしろ私の娘の方が母と過ごした時間があった事は、攻めての救いである。空想の箱を作りその中で動く自分はあれもこれもやりたい事を抱え独りでぼろぼろになった事もあった。それから役割で動く人を創る事も考えたみた。可能性のある若い人が集まり、未知の世界を見つける夢の話を一緒にしたいとも思った。私は勉強は嫌いで学問の知識も無いが生きた歳月だけは経験しているから、これだけは自慢出来る事だ。楽しいこと悲しいことの数だったら沢山持っている。だから得意な想像をしたり空想することが出来る、ここの場所の箱の中で各々の役割を捜したり見つけたりするための空気造りがサロン・ド・キキの始まりだった。15年続くとは思ってもいなかった事である。

Kiki's letter on web vol.9

キキ通信 vol.9

2011.11.2.wed.

「キキ通信」によって時計の針を巻き戻し、その日まで追い付くと時間がゆっくり戻って行く。井の頭公園の中を抜けて公園駅まで歩いて行くあの頃は、心地のいい時間の道のりだった。うさぎ館から公園通りを、しばらく行くと左に黒門がある、昔この路は、馬車路と言われていたらしく、この黒門の入口には馬の水飲み場らしき名残がある。住宅街の坂を降りると、なだらかな階段になりその先のボート池まで来たら、井の頭公園になる。左手にペパカフェ・フォレストのテラスが見える。スパイシーなハーブの香りがしている。スープの仕込みに忙しいキッチンの様子と、オープン前の慌ただしいスタッフの活気ある声がしていた。通り過ぎながら、「おはよ~う」と声を交す。池に沿った桜の木の道は都会を離れて、まるで箱根あたりに居るような空気を思わせる。池が無くなり赤いペンキで塗られたブランコがある、ひと気の無い小さな広場を抜けると井の頭公園駅に出る。ここ迄、私の足で歩く時は気分の良い日に限るが、私は単独では歩かない。必ず持ち歩く、兎の黒い傘が一緒だ。傘と言っても傘として使う事は無く、私の不自由な足の、支えとして何処に行くのも離さずに持って行く。この傘の柄には耳の長い兎の頭が着いている。15年程前になるだろうか、パリのサンジェルマンデプレの通りに入った交差点の左に、小さな古い傘屋があって其所に行くと決まって又兎の頭の着いた傘を買ってしまう。ボルドー色のを最初に買った。次に行った時は娘の真由美に赤いのを買う。最初に行った時は、あいそうの悪いムッシュが居た。コレクションなのかアンティークのステッキを自慢気に見せていた。次の時は年配のマダムがいて、ムッシュは遠くの旅に行ってしまったと話してくれた。そして私に教えてくれたのは、傘を持つ時の仕草だった。人様に迷惑の無い様にすること、そして美しく持つ事。傘をひょいと小脇にかかえ柄に手を添えるそれがマナーよ。と言うマダムは素敵だった。その時私は黒い傘を買った。今でも私は、その時の黒い傘を持ち歩いている。そして傘を持ち交える時は決まって小脇にかかえて、手を添えてしまう。すると兎の頭の柄が、まるでペットの様に顔を出す。そんな時、珍しいのだろうか、よく声をかけられる事がある。日本では今だこの傘のレプリカも見たことが無い。次にパリに行った時はマダムは居なかった。そして耳の長い兎の傘も無かった。兎の耳が短くて傘は折りたたみになっていた。いかにも日本人が好きそうな傘になっていた。そう言えばマダムが教えてくれた事が、もうひとつあった。耳の長い兎は野うさぎなのよ。足も長く森に住んでると言っていたのを思い出す。次の年パリは小雪が降る2月、ヴァレンタインだった。黒い傘を私は初めて使った。耳の長い兎の傘もマダムの姿も店には無かったけど私はもう何年もこの傘といつも一緒にいる。何度目かの冬が訪れて、今はもう井の頭の公園の路もそしてパリのサンジェルマン通りの路も私はすっかり歩か無くなってしまったが、耳の長い兎の傘だけは、今でも私の傍にいる。

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